人間変容論とは


 藤川の雑記帳(エッセイ)


・ 2024年10月04日 最近、「力の指輪」シリーズを観ているのですが、サウロンのやり方って、新自由主義時代の政治家や官僚のやり方と同じですね。一言で言えば、サイコパスです。「選んだのはわたしじゃない。選んだのは君自身だ」といったようなセリフが出てくるのですが、人の心を内側から支配するためのスキル、罠にかからないよう身を守るためにもよく学んでおく必要がありそうです。ここから得られる教訓は「敵に自分の弱みを見せるな!」ですね。

・2024年10月04日 最近、藤川家ではやっている小説を紹介します。司馬遼太郎の「俄(にわか)」です。万吉の型破りなところには大いに憧れます。大阪にまつわるさまざまな(一部は忘れられた)出来事を知ることができます。ぜひとも学校の道徳の教科書で取り上げてもらいたいものです。郷土を学ぶためにもよいと思います。幕末以降の大阪って、万吉に救われたと言ってもよいのでは・・・。しかし、極道で賭場の元締めだったりもするし、命がけのシーンではやたら素っ裸になったりするので、さすがに教材には出来ないのでしょうけど。だとしても、とくに思春期の若者にとっては憧れの対象になるのではないかと思います。学生たちとともに、万吉にゆかりの場所を訪ね歩く、「俄ツアー」などやってみたいものです。堺事件で有名な妙国寺とか、大阪阿倍野の巨大墓地とか、千日前とか・・・・。

・2024年6月28日 政策をめぐるある討論の中で支配体制にほころびが生じる瞬間を目にし、感動のあまり、ついついゴフマン流に分析したくなってしまいました。さらにそこから着想を得て、独裁支配体制のメカニズムについて考えてみました。
 独裁者(独裁者タイプの人)の支配は、被支配者を分断することを大前提としています。独裁者は、数の上では圧倒的に不利なわけですから、被支配者に束になってかかってこられたら当然負けてしまうわけです。そうならないために、被支配者同士を分断しておく必要があります。その分断の方法としては、被支配者たちを物理的障壁によって互いに隔てておき、互いの情報交換を禁じるという方法(オーディエンスの分離)もありますが、被支配者たちの心を内側から操り、自ら心理的障壁を構築させるという方法もあります。つまり、被支配者である個人あるいはグループが互いに不信感を抱くようにしておくという方法です。
 そのために独裁者は自ら、あるいは側近や密告者(実は常に潜在的離反者)を通じて、被支配者である個人やグループの動きを逐一探っておきます(独裁者は他人の悪口が大好きです)。そうしておけば、独裁者の不正を告発しようとする兆しが見えたときに、その告発者の、(大抵は小さな)スキャンダルを曝露する、あるいはでっち上げる(偽装)ことが容易になります(スターリンによる独裁体制や旧東ドイツにおける公安警察の活動が参考になります)。この小さな曝露あるいはでっち上げを通じて、独裁者は、自らに向けられた批判の矛先を告発者の方へと転じる(論点ずらし)ことができます。そうすると、告発者としての資格が周囲から疑問視され、告発内容の真実性も揺らぐことになります。
 さらに、告発者が「人間らしさ」を保持していれば、すなわち、自己反省能力を保持していれば、皮肉にもこの論点ずらしはいっそう奏功します。自覚なしに行っていたことがスキャンダル(?)として暴かれたわけですから、告発者はショックのあまり自信(自己自身への信頼)を失い、自分の配慮不足を当然反省することになります(このことはすでに以前述べました)。おそらくその瞬間には告発の声は沈黙することになるでしょう。その沈黙の間にも、独裁者側からの反撃は続けられます(告発者の小さなスキャンダル情報ならすでに山ほどあるはずですから、きっと何時間でも反撃を続けることができるでしょう)。そして結局、告発者側は自分自身のための「印象管理」を維持できなくなり、振り上げた拳を自ら降ろす結果となります。こうして結局、被支配者たちの団結と共同告発のチャンスは失われてしまうのです。
 しかし、独裁者は、その名が示すとおり、ひとりぼっちです。心から信頼できる友はいません。側近や密告者ですら、抵抗の無益さを熟知しているが故に独裁者に従っているにすぎません。彼らは独裁者のより深い秘密を握っていますが、彼らもまた自身のスキャンダルを独裁者によって握られているはずです。よって彼らと独裁者との関係はきわめて脆弱です。時代劇の「越後屋とお代官様」の関係のような、異なる詐欺グループ間の連携は、信頼によって支えられているのではなく、恐怖によってかろうじて維持されているにすぎないのです。側近たち(「越後屋」)は、形勢不利となれば、いつでも仲間を裏切り告発者に転じます(根返り)。このような相互不信と孤独、ここに独裁者の最大の弱点があります。
 独裁者のこの底なしの孤独、ひとりぼっち宇宙空間を漂っているような感覚。それは気楽に暮らしている人からは想像もできないほどの底なしの恐怖を惹起します。それは、「孤独なのは自分だけでなないのだ」「世の中とはそういうものなのだ」と絶えず自分自身に言い聞かせることでしか耐えられないような深い孤独です。しかも、自らの支配体制を維持するために、膨大な時間とエネルギーを費やして潜在的告発者たちのスキャンダルに関する情報収集活動を継続しなければならず、気楽に話せる仲間を探す余裕すらありません。そうした自分自身のあわれな姿を直視するとたちまちその存在は崩壊してしまうでしょう。そのことは誰よりも独裁者本人がいちばんわかっているはずです。だからこそ、不信感を抱きつつも側近や密告者たちを自分のもとにつなぎとめておき、見せかけだけの仲間関係(話題はいつも他人の悪口)を維持しようとするのです。
 しかし、告発者は、独裁者におけるこの底なしの孤独を理解し、哀れんであげる必要などありません。まずは、独裁者がこの孤独な自分の姿と孤独の原因が自らの行為にあることを直視せざるを得ないところまで追い詰めることが必要です。そのためには、最初の告発者に二番手、三番手が次々と続くことが必要です。それを可能にする前提は、独裁者によるオーディエンスの分離の試みの下をかいくぐって、ひそかに被支配者たちの間で同盟関係を結んでおくことによって形成されます。もちろん被支配者の中にも密告者がいるかもしれないという相互不信があるのでしょうから、この同盟関係は「それとなくさぐる」という形でしか生まれないでしょう。とはいえ、被支配者たちの間の相互不信と孤独は、独裁者が抱える底なしの孤独とは異なり、独裁者によるオーディエンスの分離によって作られた見せかけにすぎないため、苦痛を共有している事実さえ明らかになれば解消も困難ではないはずです。あるいは、告発者たちが互いに独立して独裁者の不正に関する情報収集を行っている場合には、最初の告発がなされた瞬間にその場で同盟関係が結ばれることもありえます。
 いずれにせよ、告発が続けられた結果、もし独裁者にも良心のかけらが残っており、従って十分に反省し、周囲との間に新たな縁を結び直そうと努力を開始したならば、そこが哀れみをかけてあげるポイントです。このポイントを見誤り、告発を中断すればすべてが台無しになるどころか、以前にも増して強力な支配体制が再構築されることになってしまうでしょう。さて、政治の行方はいかに?

・2024年6月28日 ずいぶん以前、トヨタ財団から助成金をいただき、中国雲南省の山奥の族の村々を巡って、経典を収集・保存する活動を行っていたのですが、その経典の中に「指路経」というのがあって、いわゆる「死者の書」として葬儀で唱えられるものです。その内容は、あの世へのナビゲーションになっているわけですが、目的地点(あの世)での死者たちの「幸福」な暮らしも描かれているわけです。彼らにとっての「幸せ」とは、毎日不自由なく暮らせることで、言い換えれば、自分の周囲のモノや人との間に良好な関係が維持されている状態なのです。あの世でも働かなければなりませんが、その成果がきちんと返ってくる。具体的には育てた野菜や穀物が豊かに実る、農耕用の牛がよく肥えていて作業でも頑張ってくれる、祖先たちと仲良く暮らしている、といった状態なのです。「相対的幸福」について前の記事で述べましたが、イメージしやすくなりますね。

・2024年6月28日 ゴフマン研究について:最近ドイツにおけるゴフマン研究をまとめたGoffman Handbuch(ゴフマン事典)を読んでいます。久しぶりにワクワクしています。事典ですから、内容的にはそれほど目新しいものはないのですが、これを翻訳出版すれば日本におけるゴフマン研究に与えるインパクトは大きいだろうなと思います。未だに「アメリカ中産階級を扱った保守的理論」としてのレッテルが支配的なようですから。気にとめる必要もないほどアホらしい評価だとは思いますけど・・・・・。

・2024年6月28日 「幸福」の概念について:私が想定している「幸福」は、「相対的貧困」になぞらえて、「相対的幸福」と呼んだ方がよいですね。過去30年ほどで日本もすっかり「衰退途上国」になってしまったように感じているのですが、私の「幸福」のイメージもそうした時代背景の中で知らぬ間に控えめなものになっていたように思います。いろいろと無理をしてでも何かの目標を達成したときに持つ感情は昔の「幸福」の感情であって、他者の幸福(「相対的幸福」も含む)へのチャンスを犠牲にして得られたある種の特権に伴うものなのではないか、と最近では思います。教育の目標もまた、自己の周囲のモノや人、また、自分自身との縁を結び直すという福祉や医療の目標に近づいてく、そうした時代なのかもしれません

・2024年6月18日 ナンマンダブについて:そう言えば、私は幼い頃「ナンマンダブ」と唱えながら外を駆け回って遊んでいたそうです。近くに住む叔母がそんな私の姿を見かけて、「この子はかわった子だね〜」と感想をもらしていたとのこと。近所に宗教施設の集会所か何かがあって、頻繁に念仏が聞こえてきたからだと思います。もしかしたら生涯に念仏を唱えた回数は、敬虔な信者に負けないかもしれません。(私は宗教をもってませんけど・・・・・・)。

・2024年6月17日 若き社会人たちとの対談から得た着想:絶えず「今・ここ」にある自分を批判的に省察し続けながら生きること、「人間らしい」生き方とはそういうものだと思う。それを継続できる人は強く優しく、他の誰よりも信頼できる。しかし、その批判的省察の主体性を乗っ取る才に秀でた人もいるようだ。つまり、その省察の対象である「今・ここ」にある自分の弱さにつけ込み、相手の心を支配することのできる人である。被害者側は、持ち前の優しさで、加害者に対してすら「もっと普通のところに才能を使えばいいのに」とか「この人はどれほど辛い幼少期を過ごしたのだろう」などといろいろと想像して心配してしまうものだが、そんな人のことを心配するよりも、まずは我が身を守ることに徹し、ナンマンダブ(正しくは南無阿弥陀仏)と唱えつつサッサと逃げた方がよい場合もある。でなければ、「人間らしさ」をなんとか維持してきた人も一人ずつ倒れていき、ついには誰もいなくなってしまうだろうから。あとのことはすべて阿弥陀様にお任せいたしましょう(私は宗教はもってませんけど・・・・)。社会人生活も楽ではないようで、サバイバルのためにはいろいろと知恵が必要になりますね。

・2024/06/07 論文を読んでいると、「学者って、普通の人なら当然気づくことにもはや気づけなくなった人たちで、普通の人の感覚を取り戻すためにややこしい方法論をわざわざ使わなければならないんじゃないの?」「学者になるために、これまでの人生でずいぶんと無理をしてきたんじゃない?」と思うこともあるんですけど、みなさんはどうですか? たまたま読んでいる論文のレベルが低いだけなのかな? 
 
・2024/06/07 贈与論と「ただ乗り」について。モース以来の贈与論では、もらったものを借りたものとみなして、いつか返すというのが前提になっています。日本についていえば、いわれなく何かをもらって「済まない」と思う感情は、この贈与のメカニズムに由来します。「済まない」は「完済していない」ということで、返却するまでは負い目を感じるということです。ただし、もらったものと同等の価値のものを直ちに返却すると人間関係を破壊することになるので、インターバルを設けたり、もらったものよりも少し価値が低いものを返したりします。また、(それができない場合もあるため)直接何かをプレゼントしてくれた人に返すのではなく、とりあえず誰か別の人にプレゼントすることで負い目の感情を緩和することもあります。「情けは人のためならず」ということわざもこのメカニズムと関連していて、目の前の困った人を助けるという行為は、めぐりめぐって自分が困っているときに助けてもらえるだろうという淡い期待を表現しています。「済まない」とか「情けは人のためならず」といったことばがまだ意味を保持していた時代があったのですね。とりあえず今自分はそれほど困っていないので、身近な困っている人を助けるということ、それはいわゆる「ケアの倫理」に準拠していると言ってもよいでしょう。そうした行為は、家族間では今でもまだ行われている(?)と思いますが、家族を超えた社会においては徐々に意味・機能を失っているのかもしれません。
 「いわれなくもらったものであっても返礼などしない」で、ただ「ラッキー」と思って受け取るだけの人は結構いるものですが、他方で、それでも社会の中には、「ケアの倫理」に従って見返りなしにいろいろとプレゼントしてくれる人も大勢います。そうした状態では、前者が後者の善意に「だた乗り」するような事態が生じないでしょうか。もらった人は、もらったものを自分自身の所有物として扱い(サッサと売りさばくとか)、他方で、与えた人はいつか自分が困ったときにめぐりめぐって自分が助けてもらうと、おそらく実ることもないであろう淡い期待を抱き続けているような事態です。もはや需要と供給のバランスもへったくれもないわけで、それは経済の崩壊を意味するとも言えます。
  歴史学者ハラリは、バイオテクノロジーとITテクノロジーを手にした者が一人勝ちし、それ以外の人々は「無産社会級」ならぬ「無用者階級」として扱われるようになるという未来予測をしていますが、これに準えるならば、将来的に人類は、人情を欠いた「ただ乗り階級」と、今なお人間味にあふれた「無償サービス階級」という二つの集団に分かれるのかもしれません。ちなみに、前者はもらったことに感謝すらしないのに対して、後者は、搾取の事実を認識できないだけでなく、それを善きことと信じ、みずから進んで無償でサービスを提供するわけですから、抵抗の術すらありません。奴隷や「無三者階級」よりもむごい仕打ちを受けているとも言えます。  かつて、ネズミ講めいた企業の販売員になった友人から、会員に勧誘されたときに抱いた違和感の意味は、今では言葉にすることができます。たとえば、友人同士の間で商品の売り買いをする場合、商品の運送費は普段の行き来のついでに運搬するのだからタダでよいということになります。しかし、実際にはその運搬のためにガソリン代とか時間とかが掛かっていて、本来は賃金を要求してもよいはずです。しかし、「いつも行き来している友達同士だから運送費はいらないよ、お互い様だから」ということで、商品を運搬してくれた人は自ら進んで賃金を放棄しています。しかし、企業側からすれば、必要経費を省けた分、利益は増大します。その利益を最終的には企業がガメてませんか、という話です。この勧誘を受けた際、「インフォーマルな友人関係を金銭に変換してしまってもいいの?」「もう元の友人関係には戻れなくなるよ?」という疑問を抱いたことを記憶しています。これはたしか80年代末のことでしたが、それ以来、この種の企業って増えてませんか?
 たとえば、SNSについて言えば、私たちは世界の情報を瞬時に手にすることができるという利益を得ることができるからこそ、サービスを利用するわけですが、たとえ入会料が無料でも、企業側からすれば、そうしたサービスは安いものです。企業はそれに見合わぬほどの巨大な利益を得ているわけですから。私たちが日々(ネット検索とかネットで商品を購入することで)こつこつと「個人情報という商品」を生産し、かつ、その商品を無料で企業側に差し出し、企業側はそうした商品を集積し、それで巨大な利益を得ているわけです。私たちが、「返礼なんかいらないよ」という気持ちで差し出したものを、企業側はサッサと金銭に変換しているということです。もちろん「ケアの倫理」は非常に大切なことですが、一つ注意していなければならないのは、人々のそうした暖かいケアの気持ちを利用して一人勝ちしている人たちもいるということです。しかし、SNSについて言えば、「私たちの個人情報の対価を支払ってください」という権利が、いわゆる「ユーザー」にはあるのではないですか。「加入費がタダでは割に合わない」、「会員になってやるから、せめて見込まれる利益の8割をあらかじめよこせ」とか言ってもよいのでは? そうすれば、多くのSNSは経営破綻すると思いますけどね。正義とケアの二つの倫理原則は、いわば車の両輪で、どちらか一方では社会は機能不全に陥るのでしょうね。

・2024/05/31 ぶざまな蜘蛛さんのおはなし。「オーディエンスの分離」に失敗し、見せたくなかった姿を人に見られてしまった時(たとえば「よい子」を演じていた生徒によるいじめ、「優しい先生」を演じていた人のハラスメント、政治家や芸能人の不祥事などが発覚したとき)、パフォーマー自身は「匡正措置」」によって自らの行為の矛盾をごまかしたり、いいわけをしたりします。あるいは、周囲から好かれているか大いに怖れられているパフォーマーであれば、周囲の共演者やオーディエンス(たとえば担任教師や学校長や大手マスコミなど)が「保護措置」として見て見ぬふりをしてくれることもあります(「緊張感をもって注して」いてくれます)。それによって、パフォーマーが周囲のモノや人との間に築いてきた関係(相互行為秩序)も何とか維持されます。たとえそれがうまくいかない場合でも、まだ救いはあります。例えばパフォーマーが深く謝罪し(もちろん「それは誤解です!」とか「誤解を与えたことを深く陳謝します!」というセリフは逆効果です)、これまでの関係をいったん白紙に戻した上で、新たに関係を結び直すことは可能です。そうすることで、関係の網の目上にある人同士が互いの「顔=面子」を尊重続けることもかろうじて可能になるものです。ゴフマン的に言えば、相互行為秩序は、延いては社会秩序は、そのようにして守られます。
 しかし、ここに権力が絡んでくると、(ゴフマンもびっくりすると思いますが)すでに破綻しているはずの関係を破綻していないものとして継続していくことが可能になります。しかし、その時のパフォーマーの姿は、巣(人やモノとの間に築かれたネットワーク)がとっくに破れてしまっているのに、補修もせずに獲物を待ち続ける「裸の大様」のような蜘蛛に似ています。いくら待ってももう獲物はかからないのに、蜘蛛さんはなぜそのことに気づかないのでしょうか。蜘蛛の権力の源泉は獲物の側の信頼にあるわけですから、蜘蛛さんも、早急に巣の修復作業を始めなければ、いつかきっとぶざまに「高転びに転ぶ」ことになるでしょう。握っていた権力が大きければ大きいほど、転ぶときはぶざまです。
 蜘蛛さんは自らの姿を鏡に映してみようと思わない限り(残念なことにそのようなことはめったに起こりません)救われるいことはないのですが、獲物の側(私たち)が最低限自覚していなければならないことは、「悪党に再び権力を握らせてはならない」ということでしょう。あらかじめ危険を察知することは、なにしろ蜘蛛の糸が透明であるため難しいのですが、私たちは少なくとも事後的にでも適切に対処する必要がありますね。失敗もまた、大切な学びの契機なのですから。

・2024/05/29 曼荼羅とお遍路さんについて。2024年5月27日のエッセイの続きです。まず、熊野観心十界曼荼羅ですが、HPでも絵の全体像を見ることができます。ググってみてください。十界というのは、人間がぐるぐると回る十の世界のことで、現世はその一つにすぎません。残り九つは様々な種類の地獄です。人は生前に善行を積もうが積むまいが死んだら皆これらの地獄を全部回らなければならないわけです。しかし、子孫が供養してくれれば、菩薩様が現れて地獄の滞在期間が短くなるわけです。絵の中央にいる子どものように見える人は施餓鬼(たしかお盆の原型だったように思います)の場にいるのではないかと思います(間違っているかもしれません)。これは飢えた人々に食事を提供したりして困った人を助けるために行われる宗教行事ですが、それは同時に死者供養でもあったわけです。困った人を助けると、その見返りとして、地獄巡りをしている自分の親や祖先の地獄での苦しみが和らげられるわけですね。そう考えると、「情けは人のためならず」ということわざの意味ももっと奥行きがあったのではないかとも思えてきます。人に情けをかけるとめぐりめぐってそれは自分自身に返ってくる(自分が困っているときに助けてもらえる)といった現世利益的な考えで解釈されることが多いわけですが、実は祖先の霊への供養になるという意味だったのかもしれません。もしかするとお遍路さんをサポートすることにもそのような意味があったのかもしれません。お遍路に関するこの自説にはまだエビデンスはなく、単なる着想にすぎませんが、調べてみる価値はありますね。
 さて、ここからさらに話を展開していきましょう。アクターネットワーク理論においては、人とモノが等しくアクターとして捉えられますが、祖先の霊や菩薩のような霊的アクターは考慮に入ってませんね。しかし、これも考慮に入れなければ、施餓鬼とかお遍路などは理解できないのではないでしょうか。以前触れた「ケアの倫理」では、家族同士ではごく当たり前に行われるケアが赤の他人にも拡張していくことが想定されていますが、その拡張は、優しさ、親切心、慈愛のような個人的な性格要因によって可能になるのでしょうか。むしろ、そうした拡張が可能になる場合には、両者を接続する「ミッシング・リンク」として、霊的アクターが介在しているのではないでしょうか。   
 ついでにもう一つ。最近、かつてNHKで放送された「ふるさとの伝承」シリーズを一つ一つ観ているのですが、21世紀の初め頃であっても、地方の人々は、今とは比べものにならないほど、頻繁に八百万の神々や仏に祈ったり感謝したりしていることに驚かされます。どうも、この20年ほどの間に私たち日本人の暮らしは急速に様変わりしたようです。今私たちがスマホをいじっているのと同じくらい、と言えば極端すぎますが、結構な頻度で神仏に祈ったり感謝したりしているんですよ。様々な人、モノだけでなく、様々な神仏(霊的アクター)との間に関係が成り立っていたのですね。それとは対照的に、今の私たちは神仏に変わってAIに助けてもらったり感謝したりしているわけですね。かつての仏壇の位牌や神棚のお札やお護りのような携帯端末が、インターネットを介してAIと接続してくれるスマホに取って代わられたというわけですね。インターネットは霊界までは届いていないと思いますが、AIの戒名を刻んだ黒い漆塗りのスマホケースなんて新商品はいかがですか?

・2024/05/29 教えるとはどういうことか? 今日は2024年5月24日のエッセイからの展開として、新たな問いについて考えてみます。学ぶ人と教える人の区別は明確なものではなく、グラデーションで相対的に区別されるだけではないでしょうか。一言で言えば、学び手から見て教える人は、単に探究作業の先輩にすぎないということです。では、何を探究しているのでしょうか。それは、アクター間のネットワークです。このネットワークを辿る(trace)という作業をしているのです。
 学校教育に限定するなら、教師は、児童生徒自身による探究作業のお手本として、授業で取り上げる教材の探究をしています。いわゆる教材研究という作業です。国語の授業であれば、ある文学作品の中に書き込まれたアクター(モノや人)はいったいどういうもので(宗教的言説、気候の変化とそれに伴う食生活の変化、人口構造、資源の入手可能性、登場人物の家族史、政治的・経済的事件、等々)、そういうアクターを実体として存在するかのように見せたものはさらにどのようなアクターだったのかを問い続ける絶えざる探究活動を教師は退職の時期まで(あるいは生涯)続けます。教師にとっての探究のテーマには限りはありません。たとえば、さらに、文部科学省がある作品の一部を教材として抜粋した背景には、どのようなアクター(人やモノ)との関係があったのか。その抜粋によってその文学作品の見え方、読まれ方はどのように変化するのか、しないのか。自宅での読書ではなく、国語の教材として児童生徒がその作品を読むことによって、作品の意味にどのような違いが生じるのか。その教材は明治以降の学校教育の中でどのように取り上げられてきたのか。そしてそれら無数の問いを探究する上で必要なツール(例えば文法)は何なのか。このように問いの探究は果てしなく続きます。
 作者不詳の「平家物語」について考えてみましょう。この物語はいったいどのような人々によって語り継がれてきたのでしょうか。この物語の登場人物にはどのような家族史があるのでしょうか。どこで生まれどこで死んだのでしょうか。この物語はいったいどのような場で上演されたのでしょうか。観客は誰でしょうか。どのような楽器を用いたのでしょうか。その楽器の音色はどのようなもので、その音色が物語の内容とどのように結びついていたのでしょうか。この時代、物語とはいったいどういうジャンルで、どのような目的や効果を持っていたのでしょうか。
 あるいは数学について考えてみましょう。ある公式が発見された背景にはどのようなアクターがあったのでしょうか。それを探るために、場合によっては前ソクラテス期の自然哲学にまで遡らなければならないかもしれません。そこには、今日の私たちの想像を超えたような世界観が見つかるかもしれません。
 他方、この教師の探究活動と比べた場合、児童生徒は教師とは異なる地点から探究を始めているだけで、教師と似たような探究の道筋(軌道)をたどっている場合に限り、それが相対的に早いとか遅いとか言えるに過ぎません。
 このように考えると、教師に出来ることは、児童生徒と同じく探究の途上にあって、その「探究の姿勢」をお手本として示すことだけでしょう。教師にとっての探究の(暫定的)結果が、内容面で、そのまま児童生徒の探究をサポートできるとは限らないからです。このような考え方をさらに敷衍すると、教員養成をしている大学教員の役割も、教師志望の学生たちとグラデーションでゆるやかに区別することしかできないのではないでしょうか。
 「正しい」とされる解説をするだけでなく、自ら探究した(暫定的)成果を児童生徒の前で熱く語る教師の姿を想像してみてください。ずいぶんと魅力的ではないですか? 私は専門家ではないので正確には知りませんが、ひょっとすると野村芳兵衛の「同行」という概念は、そういうことを指し示しているのかもしれません。なるほど、授業の効率を重視するならば、それは大変な時間の無駄に見えるかもしれません。しかし、私みたいにどうせ数年後にはすべて忘れてしまう人もいるわけで、それってもっと無駄なのではないですか? 「さあ君の話を聴こうじゃないか」とか「どこがわかりにくいの? わかりやすく説明するから教えて?」なんて向き合われると、児童生徒からすれば鬱陶しいじゃないですか。むしろ、児童生徒の「心」などそっちのけで、教材の面白さを楽しげに語ってくれる先生の方が魅力的ではないですか? これは世界の探究への誘(いざな)いですね。ちなみに私は(別に授業を魅力的にしようと思っているわけではありませんが)縄文時代が大好きで、授業ではしばしば脱線をして、土偶や土器を見ながらいろいろと想像したことを話すことがあります。これを迷惑がっている学生もいると思いますが、想像に付き合ってくれる学生もいますね。教師にできることは、せいぜいそれくらいのことではないでしょうか。それくらいしかできないのは、私だけなのかもしれませんが。

・2024/05/27 昨日、久しぶりに映画「バルトの楽園(がくえん)」観ました。お遍路さん登場しとるやん、会津藩の話もちゃんと出てくるやん、といった驚きもあり、改めて、板東俘虜収容所での出来事について考えさせられました。松枝所長が元会津藩士の子孫であったため、ドイツ人捕虜たちにも自分たちがかつて経験した屈辱を味合わせてはならないと思ったであろうことや、近隣住民にとって、お遍路さんをもてなす習慣がドイツ人捕虜に対する接し方に反映しているということはよくわかります。前者について言えば、イエス・キリストの説いた倫理(「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい」)に通じるところもあり、暴力の連鎖の拡大を抑止するために重要な働きをします。他方、後者についてはもう一歩踏み込んで考えてみなくなりました。
 そもそもなぜ、地域の人々はお遍路さんをもてなした(もてなす)のでしょうか? 中世に大阪四天王寺の西門の石の鳥居に向かうハンセン病患者たちを旅先で出会った人々が助けたことと共通するのですが、たとえば「熊野観心十界曼荼羅」からも見て取れるように、困っている外部者(旅人)を助けるのは、施餓鬼と同じような意味を持っていて、自分自身の祖先供養でもあったのではないかとも考えてみました。それは、単に収容所の近隣の住民が親切だったとか、元会津藩士の子孫が収容所の所長だったということだけでなく、根底には仏教思想に根ざす倫理があったのではないかということです。
 こうした倫理は日本独特のものかもしれませんが、今日注目されている「ケアの倫理」にも通じるところがあります。家族に対するケアの倫理はいったいどのようにして家族外の人々にまで拡張されるのでしょうか。その接続ポイントには宗教があったのかもしれません。
 もし第一次世界大戦後のヨーロッパの戦勝国側に松枝豊寿所長や近隣の住民のような人がいて、ドイツ人たちが自らの尊厳と矜持を守ることができたならば、きっとナチスドイツも力を持つことはなかったのでしょうに、と空想したりもします。もし徳島に行かれる機会がありましたら、どうぞ収容所跡地に隣接する鳴門市ドイツ館を訪問してみてください。(⇒2024/05/29のエッセイに続く)

・2024/05/24 最近は、ものを書きたいと思うことが徐々に少なくなってきたけれども、講義や演習の中で、(ゴフマンに触発された)「教育と福祉のドラマトゥルギー」やANT(Actor-network theory)について話をする中で、徐々に人間の変化・変容について考えがまとまってきたので、メモっておきます。
  以前、論文集『人生の調律師たち』の中で次のように述べたことがあります。特定の「状況situation」の中で「したいことwish; want」と「出来ることcan」と「すべきことshould」の3要素がバランスをとれている状態で感じられるものが「幸せeuphoria」であり、その時の状態を人は「本当の自分」と信じ、そういう状態でいられる場を「居場所」と考える、と。E.ゴフマンは基本的には(ミクロ)社会学者なので、(モノのことも大道具や小道具として考慮に入れていたとはいえ)基本的にはこの「状況」を人的環境と捉える傾向にありました。しかしここに、ANTの「対称性symmetry」の考えをもっと積極的に導入して、「状況」をモノや人との関係と捉えることにしましょう(これらのモノや人はいずれもアクターとして捉えられますが、それ自体それぞれが属する動的ネットワークの脆弱な結び目にすぎません)。これによって、「幸せ」を、周囲のモノや人とうまく関係が結べていて、「それを理解できる/それから理解してもらえる」、「それがどうアクトするかが予想できる/自分のアクトを予想してもらえる」、「それをうまく使える/使ってもらえる」、一言で言えば「困らない」といった状態として再定義することが可能になります。
 それを前提に、人生における人間の変化・変容について考えてみましょう。長い人生の中では、先ほど述べた3要素間のバランスが壊れることがしばしばあります。病気になってかつて出来ていたことが出来なくなるとか、新たにやりたいことが出てきたとか、周囲からの期待が弱まったといったような個人的に認知しやすい変化もありますが、これまで周囲に当たり前に存在したモノや人(アクター)が消滅したり配置を変えたり、これまで存在していなかったモノや人が新たに現れたりといった(気づかないことも多い)環境の変化もあります。
  実は3要素間のバランスは常に揺れ動いているのですが、人生の中にはそのバランスの変化が可視的になるときがあります。人はこれを人生の「節目」と呼んでいます。そうした節目において、私たちは、新たな環境の中に存在するモノや人と関係を結び直し、再びネットワークの安定性を作り出そうとします。例えば、入学とか成人式とか還暦とか退職とか葬送儀礼のような通過儀礼ではそれが顕著に表現されます。そこにかつて見られた「死と再生」のモチーフは、関係の「切り結び」を象徴するものです(『教育学における神話学的方法の研究』を参照のこと)。こうした関係の結び直しは、広い意味で「学び」と呼べます。幼少期から成人になるまでの人生初期には、とくにこうした「関係の結び直し=学び」が活発に行われます。しかも、全体として見た場合、3要素間のバランスの水準が徐々に上昇しているように感じられるものです。つまり、以前よりも「幸せ」になれたと感じられるということです。そうした変化を私たちは「発達」とか「成長」と呼んできました。また、それが長い間、教育学の基礎概念の一つでもありました。
  しかし、人生の他の時期にも目を向けて視野を広げると、3要素間のバランスの修復・回復は生涯(あるいは生前から死後まで)続きますし、その都度私たちは大いに「学ぶ」ものです。そう考えたとき、人生初期における「発達」「成長」に伴う「学び」だけに焦点を当てていたのでは、視野が狭すぎるように思えてきます。もちろん、体力の減衰とともにかつてできていたことが徐々にできなくなる人生後半期においては、私たちはそのつどの身の丈にあった「幸せ」を実現するために「学び=関係の結び直し」を続けます。しかし、よく考えてみれば、人生初期においてすら必ずしも常に「幸せ」の達成水準は向上を続けるわけではありません。若いころであっても、何かができなくなる、したくなくなる、期待されなくなるということは頻繁に生じているはずです。私も高校時代まで得意だった数学が今では全くわかりませんし、柔道ももうできませんし、指が回らなくてエレキギターももううまく弾けません。しかしそれでも、それなりに「幸せ」を感じる瞬間があるものです。「下降(私の場合は墜落?)しながらバランスを取る」イメージです。逆に、歳を取ってからでも「幸せ」の達成水準が向上することがあります。たとえば、(教育者及び教育学者としては誠に恥ずべき事なのですが)私はかつて苦手だった子どもたちとの付き合いが結構うまくできるようになりましたし、調理や木工や漆塗りや自転車作りなどのモノ作り全般の腕前は明らかに向上しています。要するに、「幸せ」の達成水準が相対的に「下降する」にせよ「上昇する」にせよ、とにかく失われてしまったバランスを回復・修復しようとするとき、人は必死になって「学ぶ」し、それが達成されたとき人は「幸せ」を感じるのです。
 このように拡張された「学び」のイメージを持ちながら、教育についてあらためて考えてみることはできないでしょうか。これまで、「教育者」や「大人」と呼ばれる人々は、どちらかと言えば、バランスの達成水準を高めていくことばかりを「よいこと」と考え若い世代に対して推奨してきたのではないでしょうか。しかし、それはあまりに一面的ではないでしょうか。むしろ、バランスを回復・修復しようとする人をサポートすることが重要なのであって、バランスの達成水準が上がるか下がるかは二次的なことではないでしょうか。かつて「幸せ」と感じていた状態と今「幸せ」と感じている状態を比較してみてください。その水準が常に「右肩上がり」に向上してきたと言える人は果たしてどれほどいるでしょうか。むしろ、多くの人は、その都度「バランスを取り直している=関係を結び直している」だけだ、としか言えないのではないでしょうか。そう考えるならば、本人の願望・欲求や周囲からの期待に合わせて能力を高めることを支援するだけでなく、高すぎる願望・欲求を自分の能力や周囲からの期待に合わせて妥当なレベルに引き下げること(冷却)もまた正当に「学びの促し=教え」として捉えられるでしょう。
 このように考えるとき、もはや教育や福祉や医療といった活動領域のカテゴリー、及び、そうしたカテゴリーに沿ってアイデンティティを定義してきた教育学や福祉学や医学の学問領域区分(さらにそれぞれの下位区分を含めて)は、少なくともその重要性の一部を失うのではないでしょうか。というのも、いずれの活動領域も学問領域も「関係の結び直し=幸せの達成」という点で同じ目標を追求しているからです。それは、これまで以上に領域を超えて相互に学び合うことが必要になってくるということを意味します。たとえば、教育者や教育学者も、かつて罪を犯したが今では社会復帰を目指している人々、大病を患い新たな生き方を模索している人々、大切な家族を失い生活を立て直そうとしている人々、戦火や災害を逃れて亡命や移住をした人々、テクノロジーの進歩によって職を失った人々(いずれも年齢とは無関係です)、そして彼ら・彼女らをサポートしている人々(私の言う「人生の調律師」たち;しかし今や情報通信テクノロジーもここに含めるべきでしょう)から「学び」や「幸せ」の再定義、そして自らが携わっている支援活動の再定義に役立つような新たな着想を得ることができるのではないでしょうか。実際、看護・福祉領域における「ユマニチュード」のスキルは乳幼児に対する関わりから着想をえたものでしょうし、逆に、教育もこの実践から学ぶところが多いはずです。
 これらのことは以前から言葉・思考のレベルではわかっていたし、人に語ってきたことでもあるのですが(「人間変容論」という研究室名もそこに由来します)、これから先のこの国の経済に「右肩上がり」の向上を見込むことはできませんし(給料は上がりませんが電気料金も高速道路料金も一気に跳ね上がりました;キャベツも高くて手が出ません)、個人的には退職次期も近づいてきたこともあり、最近、ようやく「腑に落ちた」感じがしてきた(数週間後には再び「腑に落ちない」状態になっているかもしれない)ので、備忘録として書き留めてみました。(⇒2024/05/29のエッセイに続く)

・2024/05/23 「河童に尻子玉を抜かれる」という言い伝えがあります。「尻子玉」というアクターをあたかも「実体」であるかのように信じさせたのはいったいどのようなモノや人とのネットワークだったのでしょうか? 気になって眠れません。(河童の方は気にならんのか〜い?)

・2024/02/09 「こいつはめでたい! 狂った今の世で気が狂うなら、気は確かだ!」(シェイクスピア「リア王」より)。

・2024/02/09 今、教職向けの道徳教育論の教科書の出版に向けて最後の準備を行っているところです。もう少し時間に余裕があったなら、と後悔していることが一つあります。いわゆる「東大話法」を小中学生にマスターしてもらうための道徳授業の指導案作り、といったような章があってもよかったのではないか、と。「記憶にありません」とか「誤解を招いたのであれば陳謝いたします」といったセリフの用法を実践的に学ぶ授業のための指導案です。「東大話法」に対する防衛術の習得という点では大いに役立つのではないでしょうか。しかし、教師の意図を正確に伝えることができなかった結果、児童生徒がこの話法を教師や保護者相手に使ってしまうという危険性がないとも言えません。やはりこれは非教育的でしょうか?

・2024/02/09 今話題のパーティー券・裏金作り問題と、芸能界における各種の暴力問題は、基本的に「いじめ」と同じ構造を持っていますね。悪を悪と知りつつも、自分が暴力のターゲットになることを恐れて隠ぺいに加担してしまう(つまり加害者の一部になってしまう)といった人間の弱さに問題の根源があるように思います。ミクロなレベルでもマクロなレベルでも同じ問題が発生しています。一人一人の人間は誰も弱いのですが、被害者であり同時に加害者でもある弱い人たちが連帯して告発できれば問題の解決は進むのでしょう。しかし、同じ境遇にある者どうしが互いをどこまで信じてよいのかわからないために連帯に向けて足を踏み出すことができない。それが問題ですね。いわゆる”me-too”運動以降、かなり状況も改善してきたとは感じますが、この運動もまた弱点を抱えています。その弱点は、この運動が”us-too”運動とは呼ばれていない点に象徴的に表れているようにも思います。告発への勇気を持つことができるよう互いに刺激・激励しあうことができるようになったことは大きな前進ですが、やはり闘いは孤独なままなのですよね。告発の後、規模を拡大して襲ってくる二次被害をたった一人で耐え抜かなければならない。孤独な兵士たちには敬意を表しますが、我が身に置き換えてみればあまりにつらい。権力を握る者は実は「裸の王様」にすぎず、数の上では圧倒的に弱く、一人では何もできないわけです。そこに力を与えてしまっているのが被害者であり加害者でもある弱き人々だ、という構図です。実にわかりやすく陳腐ともいえるこの分断支配の構図を見抜き、弱き人々が互いを信頼し、「せ〜の!」でいっせいに「大様は裸だ!」と言える日がいつかくるのでしょうか。

・2024/02/09 昨日、休日出勤の代休だったので、映画館で宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を観てきました。網野義彦の本を読んでいたり、若い頃ユング心理学にはまっていたり、民俗学や考古学が好きで、おまけに怪談も大好き、という奇妙な経歴・性格をもつ自分にとっては(細部は別として)とてもよくわかる作品でした。映画が終わって、近くに座っていた大学生らしいカップルが「二度目だけど、やっぱりわかんない」と言っているのを聞いてとても微笑ましく感じました。映画館にわざわざ足を運び、わからないものに何度もチャレンジする「ど根性」を頼もしく思いました。とにかく若者はかわいくて仕方がない。私もすっかり高齢者らしくなったものです(長い友達であったたくさんの頭髪たちともおさらばしましたし、白髪も増えてきましたしね)

・2023/7/21 先日、自宅マンションのベランダで仰向けになってじたばたしているきれいなタマムシを見つけました。慈悲の心で助け起こしてあげました。これは吉兆と判断し、すかさず宝くじを購入しました。そして今日は、人科近くの歩道で仰向けになってじたばたしている雄のカブトムシを見つけました。つぶらな瞳で私に助けを求めてくるので、慈悲の心で助け起こし、茂みに返してあげました。これも吉兆と判断しましたが、すでに宝くじは購入済みですから、あとは待つだけです。するとその夜、カブトムシの親子が大きなつづらと小さなつづらを背負って我が家を訪れます。お礼がしたいのだそうで、どちらかのつづらを選べと言うのです。その後の展開はもうだいたい読めているので、私は間髪入れず、「宝物がぎっしりと詰まった大きなつづらが欲しい」と答えます。すると、一瞬の間(ま)の後・・・・、と次々と妄想が広がってきます。しかし、地中で暮らすカブトムシの幼虫さんにまでわざわざ乾燥した地上を這ってきてもらうのもかわいそうだし、そもそも幼虫さんには会いたくもないし、などといろいろと考えてしまいます。

・2023/06/30 漆塗り、やっぱりかぶれて手にブツブツが出てきました。生来の漆職人ではなかったようです。ところで昨日のニュースで見たのですが、世界初の旗艦店、Fender Flagship Tokyoがこの夏オープンのようですね。コロナ禍による巣ごもり需要が背景にあるようです。こうなると、ギター作り、負けてはいられません(「誰と勝負しとるねん!?」と自らにツッコミ)。


・2023/06/30 いじめ対策推進法や道徳の教科化などその後の教育のあり方に大きな影響を与えた大津市のいじめ事件から10年になります。大津市ではその後いじめの実態把握に力を入れているというニュースを見ましたが、鬼ごっこで鬼になったことで泣き出したという事例すら記録しているとのこと。そこで着想が湧いてきたのですが、「鬼ごっこ」って結構残酷な生け贄の儀礼ですね。しかし、「遊び」というフレームによって安全性を保証された擬似的儀礼である点が重要だと思います。ひょっとすると、最近の児童生徒がおにごっこや、同様に残酷なドッジボールなどで遊ばなくなったために、いじめへの欲望が抑圧されて制御不能に陥り、結果としていじめが増えているということはないでしょうか。もちろん実に多様な交絡因子を想定しなければならないとしても、経年変化を追えるデータでもあれば、相関関係が見えてくるかもしれません。息子もすでに保育園時代(4歳)に靴下にいわゆる「戦隊モノ」のキャラクターの刺繍が入っていないという理由だけでいじめられていましたし、しかもいじめっ子はいじめられていることを密告した場合もっとひどい目に遭わせるぞと脅していました。そしてそれとほぼ同型のいじめ(ハラスメント)は高度な知性と分別があるはずの大人ですらやってしまうわけです。そうしたことを考えると、いじめという暴力への欲求は先天的・動物的な欲求として誰にでもあり、いじめの悲惨さについての知識を得たりいじめは許されないという倫理的教育を受けたりするだけでは消滅させることができないのかもしれません。であれば、いじめへと向かう欲求自体を消滅させることは実は難しいのであって、むしろ、その欲求をいかに安全な形で表現させるような「ガス抜き」が大切だということなのかもしれません。もし仮に「鬼ごっこ」遊びの頻度が低下しているのだとすればですが、「鬼ごっこ」って実はそのような「ガス抜き」装置として機能していたのかもしれませんね。

・2023/06/02 最近 思いついたのですが、「タイムラグ」という観点から教育を論じることもできますね。自己形成を前提とした上で、それを効率化するために様々の教育方法というのが考えられてきましたが、それって、たとえば「発達段階」といったものを設定することで学びに「タイムラグ」を設けているということかもしれません。「君にはまだ早すぎる」とか言って、学びが阻止されているとも考えられます。思い返せば、かつて私が不登校になった理由も、まさにこの点にありました。「子ども扱いするな!」とか「学校の授業よりも自己学習の方が早いやん!」といった不満や気づきが理由だったわけですから。「子ども向け」に薄められた文化って、本当に必要なのでしょうか? 発達段階に即して薄められた「子ども向け」文化を学ぶことによって、すべてとはさすがに言えませんが、むしろ「学び」が遅滞させられている面もあるのかもしれません。
 このシステムでは、「学び」という到達点に先に到達した人が教師であり、他の学び手よりも早く到達点に達した人が、進学校や有名大学に入学して、よい職場を獲得して、より高い収入を得ることになっているのかもしれません。たとえ遅れて同じ到達点に達したとしても、その人には利益が与えられないわけです。要するに「タイムラグ」の大小によって多くの利益が得られるか否かという格差が生じるわけですが、インターネットやAIを駆使すれば、このタイムラグを縮小できますね。ただ、インターネットやAIの使い方がうまいか下手かで格差がありますから、当面はその使い方という目標に到達するまでの「タイムラグ」によって格差が残存するでしょうけれど、早晩この種の「タイムラグ」もなくなるのかもしれません。そうなれば今あるような学校も教師も必要なくなるかもしれません。もちろんこの種の「タイムラグ」なしの学びが電子機器に完全に依存したものであるということはネックですし、また、学ぼうとしている内容の正当性をどう認証していくのかという問題もあります。とはいえ、新型コロナの感染拡大以降、本社オフィスを持たない企業が出てきたように、学校のない学びの可能性に気づいた人々も多いはずです。そうした状況のもとでは、イリイチの「脱学校論」を改めて現代的視点で読み直し、新たな自己形成の可能性を構想してみるのもよいのかもしれません。自己形成を効率化し促進するはずの学校が、実のところ隠れたカリキュラムとして「待つこと」を教えているだけではないのか? 学び手は「待て!」をさせられているポチなのではないのか? そうした問いは私を含む教育者が常に自問しなければならないものなのかもしれません。
 ちなみに今私は、誰かに弟子入りすることもなくYouTube動画をお手本に漆塗り(今度は本漆)の試行錯誤を始めました。なんと私は、漆にかぶれないようなのです。それと、梅雨時は乾燥用のムロも必要ないですね。漆職人への道を歩み始めるにはまさに今が最適ですね。

・2023/05/10 最近は非常に忙しいのですが、何とか時間をつくって「ものづくり」を続けています。過去の作品、現在進行中の作品の写真を一部掲載します。一つ目は、革製品のレストアを試みたもの。ボロボロになった鞄の縫い目をすべてほどき、同じ大きさに革を裁断し、手縫いで再生したものです。縫いながら途中で裏返しにしなければいけないところが難しかった。多種多様なDIY作品としては過去最高の出来です。

二つ目は、ずいぶん以前に韓国の友人からもらったちゃぶ台を根来塗り風に塗り直したものです。今や晩酌に欠かせぬものとなりました。これはカシュー漆を使ったものですが、将来的にはかぶれを覚悟で本漆にチャレンジするつもりです。

三つ目は、中古の自転車フレームを磨き上げて裸にした上でクリアー塗装を施したもの、中古のホイールのブレを自分で取り除き、それに新品の部品をつけたロード自転車です。瀬戸内のゆめしま街道を走ったときの写真です。安物のアルミフレームなので少し重いのが不満です。いつか遠い将来、もう少しフレームに交換しようと思っています。

四つ目は現在レストア中のフェルナンデスのレスポールモデルです。なかなかいい材質の木材を使ってはいますが、あちこち傷んでいたので、バインディング(ボディーとネックの縁のプラスチック部分)をすべて張り直し、すり減ったフレットもすべて交換しました。解体修理をすると制作者の技をすばらしさに気づかされます。Fenderタイプのギターなら初心者でも修理可能ですが、Gibsonタイプのギターのオーバーホールはとても難しいです。お風呂場に吊して乾燥させるというのも考えられるけれども家族に反対されそうなので、湿気が高くなる季節まで待って段ボールでムロを作った上で本漆仕上げにチャレンジする予定です。

五つめは、手打ち麺による担々麺です。麺は太い方がおいしいということに気づきました。

六つ目は、我が家で定番となったドイツパン風のカンパーニュという国籍不明のパンです。生地はカンパーニュですが、そこにひまわりの種、クルミ、干しぶどうなどを練り込んでおります。南米チリからのお客さんをもうならせた自信作です。


・2023/04/03 プッチーニのオペラで「トスカ」というのがありますが、オペラ化の約10年前(1981年)に何と日本で、落語家三遊亭円朝による翻案「名人くらべ」として新聞連載されてますね。Wikipediaによれば大塩平八郎の乱に設定を変えているとのこと。ローマが大阪に、ナポレオンが大塩平八郎に変わっているのかな。また、同年、福地桜痴が主人公トスカを狂言師に設定した歌舞伎作品もあるのですね。タイトルが面白く、「舞扇恨の刃」(まいおうぎうらみのかたな)だそうです。歌舞伎の題材としてはうってつけですね。主要な登場人物ほとんど死んじゃうし。いずれもオペラ作品と比較してみたいものです。

・2023/04/03 今年は、妻と二人で丹波市の氷上町の氷上さくら公園から自転車(自作)で北上するかたちで桜の花見をしてきました。お尻がいたくなるほどの長距離で、延々同じ幻想的風景が続きます。おすすめの場所ですよ。何より人が少ないのがいい。

・2020/07/18 今ふたたび話題の『大河の一滴』(五木寛之)をちょっとだけですがかじってみました。最近の私の論文(「エビデンスに基づく教育における教育哲学研究の位置について−再びEBMを参照することで見えてくるもの−」)の中で私は「アナロジー源」について触れましたが、こういう書物も「アナロジー源」として機能するのだろうなあと思っています。そこに書かれている文章の意味を理解するだけに留まることができず、従って、スーッと先に読み進めることができず、一区切りごとに立ち止まっては、自分自身のことに当てはめてみる、自分の記憶や感情に問い合わせてみる、といった読み方になってしまうような書物。教育哲学の論文もまたそうなれないものか、と夢想しますね。

・2020/07/08 ずいぶん以前にハラリの『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』を読みましたが、いいですね−。どのようなテーマであれ、これから研究を始めようとする人がまず既成観念から解放されるために読んでおくのがよいのではないでしょうか。脳の栓がスポンと抜ける感じがすると思います。そのまま放っておくとサイダーやビールのように気が抜けてしまうこともあるかもしれませんけど、栓を抜いた直後の状態から研究を始めると、のびのびと新しいことができるのではないかと思います。ともあれ、読みながらいろいろな新たな問いが湧き出してくるはずです。あなたも、「スポンッ!!」、いかがです?

・2020/07/08 現在開発中(商標登録申請中)の「エスノメトリー法」(映像をもとにした質的/量的調査法)を、私のこれまでの研究の中にどう位置づけるかを巡って、現在苦闘しているところです。というか、おそらく、私の半意識レベルで答えは出ていると思うのですが、それを意識化・言語化するのを先延ばししているだけのような気もします・・・。そうした文脈の中で、今(さら)、ハッティの『教育の効果』を読んでいます。まだ直観レベルですが、これは使えると感じています。上から目線で教師をコントロールするための道具として悪用しようとすればそれもできてしまう内容ではありますが、著者自身はそうした用法に対しては批判的だと思います。数値というもの(この本の中では「効果量」)は、誰が何のために使うのかをきちんと踏まえていないと一人歩きしてしまい、人を支配する道具にもなってしまうのですが、実践家自身が(誰かから強いられたからというのではなく)新たなチャレンジをを自己評価するために数値を用いるのであればそれは大いに結構なことなのではないでしょうか。「エスノメトリー法」はそもそも実践家支援のために(そして上からの支配から実践家が身を守るための盾として)考案した調査法なので、この「効果量」という指標を組み込めないものかと考えてもいます。

・2020/07/08 ギデンズの『社会の構成』について。ギデンズの理論には、E.Goffmanの理論を批判的に発展させた面が多々ありますが、教育学の観点から特に興味をもったのは、エリクソンの言う「基本的信頼」によって、社会的関係を支える基盤としてGoffmanが想定していた人間の人格の聖性(デュルケーム由来の考え)を根拠づけている点ですね。Goffmanにおいては、この聖性がすでに存在するものとして論の前提にされてしまっていますが、ギデンズはこれがどのようにして形成されるのかを問い説明しているからです。簡単な例をあげましょう。子どもの頃にはいろいろな場面で周囲の人をまねながらいろいろな新たな行動を試してみるものですが、結構、場違いな行動をしたりして恥ずかしい思いをしますよね。そんなとき、周囲の大人たち(何よりも親)は、その子どもに対してどういう行動をとっているかを考えてみて下さい。子どもが恥をかかないように、うまいことごまかしてくれているんですよね。成長しつつある者を守り育てようとする大人達のこの細やかな配慮、それはあまりにも当たり前なために敢えて論じられることもないのですが、子どものその後の成長にとってはとてつもなく重要な教育的措置ですよね。ギデンズはこうした大人による配慮を、Goffmanの概念である「保護的措置」概念で説明しています(Goffman自身はそうした説明はしてません)。先日、児童福祉施設に見学に行った際、子どもとオセロゲームをして遊んだのですが、あまりに弱い私に子どもたちは手加減してくれたんですね。あらためて考えてみると、これってすごいことだなあと感じるわけです。幼い子どもであれば自分が勝ちたいと思うものですが、相手に勝たせることができるだけの配慮を身につけているわけですよ。これって、すごくないですか? 私は相手の面子を潰さないように配慮するこの細やかな心遣いが社会を根底で支えていると思っていますし、おそらくGoffmanやギデンズも同じように考えるのではないでしょうか。教育学者としては、その子はいったいどこでどのようにしてそうした他者配慮の心を形成したのだろうか、と問いたくなります。おそらく、この子どもたちも、どこかで手加減してもらった経験があるのではないでしょうか、そしてそれをお手本にして今度は自分以外の弱者(オセロ界の弱者である私)を守ろうとしているのではないでしょうか。私たちが異なる世代や他者と関わる場合、日常的でありふれていて自覚されることもあまりないかもしれないけれど、いろいろな教えや学びが成立しているのだなと思います。

・2020/07/08 最近ロボット掃除機を買いました。なかなかよくできたプログラムで要領よく働いてくれるのですが、「人間ルンバ」(私は自分をそう呼んでいます)はそれよりもはるかに効率的に掃除をしますよね。人間ってすごくないですか。AIに子どもを育てるプログラムを組み込むとなると、非常に複雑なプログラムが必要になるのでしょうが、人間は特に自覚することもなくいろいろなことをやっているわけですよね。そんな、普通の日常に組み込まれた子育てのあり方を掘り起こして解明していきたいと改めて思った次第です。

・2020/05/09 ポスト・コロナの教育の姿について想像しているところですが、これまでに人類が経験したことのないような教育目標とそれを実現するためのカリキュラムが必要になるのではないかと思っています。それは、超近代型、近代型、前近代の人間形成を同時に進めていくというものです。
 基本となるのは超近代型の人間形成です。ただし後で述べるように、これは基本型ではあっても頼ることができません。多くの子どもたちが同じ時間と空間の中で同時進行で何かを学ぶということはもはやなされません。この型の人間形成では、インターネット環境の整備を条件として世界規模での相互学習が可能になります。しかし、社会的距離を確保が前提となるので、「ふれあい」という語で象徴されるような教師と生徒、生徒と生徒の関わりの直接性を追い求めることはもはやできなくなります。それは身体的接触に限らず、精神面での接近についても言えることなのかもしれません。しかし他方で「ふれあわない」がゆえに新たにできるようになることもあるはずです。映画が誕生した頃に似て、生身の人間同士ではできないようなことが新たにできるようになるという側面もあるはずです。たぶん、まさにヴァーチャル空間によって可能になること、演技・演出などの芸術的要素が、教育の目標・方法の両面でこれまで以上に強調されるのではないかと思います。
 ただし、この超近代型の人間形成には、ソフト・ハード両面での不具合に弱いという点(テクノロジー面での専門家の助けが不可欠)、個人情報の保護の難しいという点に問題を抱えています。誰もが情報テクノロジーに依存しているがゆえに、情報テクノロジーを介した支配に対して身を守ることが難しいどころか、自らその支配を受け容れてしまうという問題があります。例えば、現在の「就活」のようなものはなくなり、その時々の社会が要請する能力資質の発達を就学前から(場合によっては生まれる前から)監視されているといったような「超青田買い」が標準になるかもしれません。AIが常時個々の子どもを監視しているため、もはや定期テストや受験なども不要になるかもしれませんが、それがはたして喜ばしいことなのかどうかの判断は慎重でなければならないでしょう。このあたりの未来予測には、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』などが役に立つと思います。
 さらに超近代型人間形成の決定的弱点は、それが電力供給を前提としているため大規模停電にでもなれば子どもたちを含めすべての人が直ちに何もできなくなるという点にあります。その意味で、それはいわば「薄氷の上の人間形成」です。よって、いつインターネットが使えなくなるかわからないということを前提としつつ、使える間だけは徹底して使うということになるでしょう。基本型ではあっても頼りないというのはこういう意味です。
 前近代型の人間形成は、これまであまり重視されてこなかった、というよりもむしろ徐々に重視されなくなったわけですが、これからはあらためて重視されるのではないかと予想しています。それは「生きる力」などではなく「生き延びる力(サバイバル力)」の獲得を目指すような人間形成です。そこでは、電気・水道・ガスなどのインフラが崩壊した状態でも、一人一人(たとえ完全に孤立した状況でも)が人間の生活を根本で支えるのに必要不可欠な条件を、比較的長期にわたってどう確保できるかが問われると思います。スマホなしには1時間ももたないような現代人にとっては、まったく新しい目標に見えると思います。半世紀くらい前に行われていたような技術・家庭科の授業内容をいっそう濃厚にしたもの、あるいはデューイの「オキュペーション」をもっと本気でやるような感じだと思います。きっと、新中間層出身の「お子さま」相手の「新教育」におけるような「まねごと」的甘さのない、もっと厳粛なものになるでしょう。食料生産を基盤とするモノ作りの技術を核としながら、その技術を基盤にしつつ、周囲に人間関係を形成し、広げていくことのできる(ただしここでも「ふれあい」は禁物)ような能力が必要になるのでしょうか。コメディー映画「サバイバル・ファミリー」などを観ることでも何かよい着想が(もちろんヴィールス感染関連を除けばですが)得られるかもしれません。
 そして最後のものが、従来行われてきた近代型の人間形成で、これはもはや超近代型、前近代型の人間形成の余白でしか行われえないようなものです。同じ時間・同じ場所に多くの人が集まることなど、もはや安全・安心が十分に確保された特殊な条件下でしか行われえないでしょうから、ある意味で贅沢品の類いということになるのかもしれません。私たちが今日「学校」という言葉でイメージするような空間・時間は、19世紀後半に本格的に普及したわけですが、この2世紀に満たない短い歴史しかもたない学校というものが、人間形成におけるその中核的役割を失うということです。
 これら三つの人間形成の型は、選択肢ということではありません。三つを同時並行して進めていかなければならないわけなので、これまでの教育史に見られなかったような新たな事態が出現するのかもしれません。「インターネットを使いこなす縄文人」のような人間像が目指されるのでしょうか。もちろんすべては空想にすぎず、その善し悪しを評価することすらできないのですが。

・2020/04/10 ずいぶん以前、実に多くの方々がわたくしの「ぼやき」のページを訪問して下さっておりました。あのページは、大学以外のサーバーへのリンクで読む形になっておりましたが、今回このページのデータは大学のサーバーに保存されておりますので、あまりはめをはずすことのないよう心がけたいと思っているところでございます。
 さて、「グローバルリスクの時代における教育(学)」といったようなテーマでシンポジウムなどやっていただきたいものです。一斉教授方式に限らず同じ時間・同じ場所に多くの子どもたちを集めることを前提として存続してきた「学校」という存在の根底が揺らぐという、歴史的な出来事が今起きているわけですから。TVニュースのインタビューなどを見ていると、学校に行けない状態が続く中、子どもたちは「友達に会いたい」とは答えても「勉強したい」とは答えないようだ。学校の機能とは何だろう。学校はもはや勉強の場ではないのだなあ。小中高の時期は、友人の存在というものが何よりも重要なのだなあ。などと、あたりまえのことにあらためて気づかされます。