五つめは、手打ち麺による担々麺です。麺は太い方がおいしいということに気づきました。
六つ目は、我が家で定番となったドイツパン風のカンパーニュという国籍不明のパンです。生地はカンパーニュですが、そこにひまわりの種、クルミ、干しぶどうなどを練り込んでおります。南米チリからのお客さんをもうならせた自信作です。
・2023/04/03 プッチーニのオペラで「トスカ」というのがありますが、オペラ化の約10年前(1981年)に何と日本で、落語家三遊亭円朝による翻案「名人くらべ」として新聞連載されてますね。Wikipediaによれば大塩平八郎の乱に設定を変えているとのこと。ローマが大阪に、ナポレオンが大塩平八郎に変わっているのかな。また、同年、福地桜痴が主人公トスカを狂言師に設定した歌舞伎作品もあるのですね。タイトルが面白く、「舞扇恨の刃」(まいおうぎうらみのかたな)だそうです。歌舞伎の題材としてはうってつけですね。主要な登場人物ほとんど死んじゃうし。いずれもオペラ作品と比較してみたいものです。
・2023/04/03 今年は、妻と二人で丹波市の氷上町の氷上さくら公園から自転車(自作)で北上するかたちで桜の花見をしてきました。お尻がいたくなるほどの長距離で、延々同じ幻想的風景が続きます。おすすめの場所ですよ。何より人が少ないのがいい。
・2020/07/18 今ふたたび話題の『大河の一滴』(五木寛之)をちょっとだけですがかじってみました。最近の私の論文(「エビデンスに基づく教育における教育哲学研究の位置について−再びEBMを参照することで見えてくるもの−」)の中で私は「アナロジー源」について触れましたが、こういう書物も「アナロジー源」として機能するのだろうなあと思っています。そこに書かれている文章の意味を理解するだけに留まることができず、従って、スーッと先に読み進めることができず、一区切りごとに立ち止まっては、自分自身のことに当てはめてみる、自分の記憶や感情に問い合わせてみる、といった読み方になってしまうような書物。教育哲学の論文もまたそうなれないものか、と夢想しますね。
・2020/07/08 ずいぶん以前にハラリの『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』を読みましたが、いいですね−。どのようなテーマであれ、これから研究を始めようとする人がまず既成観念から解放されるために読んでおくのがよいのではないでしょうか。脳の栓がスポンと抜ける感じがすると思います。そのまま放っておくとサイダーやビールのように気が抜けてしまうこともあるかもしれませんけど、栓を抜いた直後の状態から研究を始めると、のびのびと新しいことができるのではないかと思います。ともあれ、読みながらいろいろな新たな問いが湧き出してくるはずです。あなたも、「スポンッ!!」、いかがです?
・2020/07/08 現在開発中(商標登録申請中)の「エスノメトリー法」(映像をもとにした質的/量的調査法)を、私のこれまでの研究の中にどう位置づけるかを巡って、現在苦闘しているところです。というか、おそらく、私の半意識レベルで答えは出ていると思うのですが、それを意識化・言語化するのを先延ばししているだけのような気もします・・・。そうした文脈の中で、今(さら)、ハッティの『教育の効果』を読んでいます。まだ直観レベルですが、これは使えると感じています。上から目線で教師をコントロールするための道具として悪用しようとすればそれもできてしまう内容ではありますが、著者自身はそうした用法に対しては批判的だと思います。数値というもの(この本の中では「効果量」)は、誰が何のために使うのかをきちんと踏まえていないと一人歩きしてしまい、人を支配する道具にもなってしまうのですが、実践家自身が(誰かから強いられたからというのではなく)新たなチャレンジをを自己評価するために数値を用いるのであればそれは大いに結構なことなのではないでしょうか。「エスノメトリー法」はそもそも実践家支援のために(そして上からの支配から実践家が身を守るための盾として)考案した調査法なので、この「効果量」という指標を組み込めないものかと考えてもいます。
・2020/07/08 ギデンズの『社会の構成』について。ギデンズの理論には、E.Goffmanの理論を批判的に発展させた面が多々ありますが、教育学の観点から特に興味をもったのは、エリクソンの言う「基本的信頼」によって、社会的関係を支える基盤としてGoffmanが想定していた人間の人格の聖性(デュルケーム由来の考え)を根拠づけている点ですね。Goffmanにおいては、この聖性がすでに存在するものとして論の前提にされてしまっていますが、ギデンズはこれがどのようにして形成されるのかを問い説明しているからです。簡単な例をあげましょう。子どもの頃にはいろいろな場面で周囲の人をまねながらいろいろな新たな行動を試してみるものですが、結構、場違いな行動をしたりして恥ずかしい思いをしますよね。そんなとき、周囲の大人たち(何よりも親)は、その子どもに対してどういう行動をとっているかを考えてみて下さい。子どもが恥をかかないように、うまいことごまかしてくれているんですよね。成長しつつある者を守り育てようとする大人達のこの細やかな配慮、それはあまりにも当たり前なために敢えて論じられることもないのですが、子どものその後の成長にとってはとてつもなく重要な教育的措置ですよね。ギデンズはこうした大人による配慮を、Goffmanの概念である「保護的措置」概念で説明しています(Goffman自身はそうした説明はしてません)。先日、児童福祉施設に見学に行った際、子どもとオセロゲームをして遊んだのですが、あまりに弱い私に子どもたちは手加減してくれたんですね。あらためて考えてみると、これってすごいことだなあと感じるわけです。幼い子どもであれば自分が勝ちたいと思うものですが、相手に勝たせることができるだけの配慮を身につけているわけですよ。これって、すごくないですか? 私は相手の面子を潰さないように配慮するこの細やかな心遣いが社会を根底で支えていると思っていますし、おそらくGoffmanやギデンズも同じように考えるのではないでしょうか。教育学者としては、その子はいったいどこでどのようにしてそうした他者配慮の心を形成したのだろうか、と問いたくなります。おそらく、この子どもたちも、どこかで手加減してもらった経験があるのではないでしょうか、そしてそれをお手本にして今度は自分以外の弱者(オセロ界の弱者である私)を守ろうとしているのではないでしょうか。私たちが異なる世代や他者と関わる場合、日常的でありふれていて自覚されることもあまりないかもしれないけれど、いろいろな教えや学びが成立しているのだなと思います。
・2020/07/08 最近ロボット掃除機を買いました。なかなかよくできたプログラムで要領よく働いてくれるのですが、「人間ルンバ」(私は自分をそう呼んでいます)はそれよりもはるかに効率的に掃除をしますよね。人間ってすごくないですか。AIに子どもを育てるプログラムを組み込むとなると、非常に複雑なプログラムが必要になるのでしょうが、人間は特に自覚することもなくいろいろなことをやっているわけですよね。そんな、普通の日常に組み込まれた子育てのあり方を掘り起こして解明していきたいと改めて思った次第です。
・2020/05/09 ポスト・コロナの教育の姿について想像しているところですが、これまでに人類が経験したことのないような教育目標とそれを実現するためのカリキュラムが必要になるのではないかと思っています。それは、超近代型、近代型、前近代の人間形成を同時に進めていくというものです。
基本となるのは超近代型の人間形成です。ただし後で述べるように、これは基本型ではあっても頼ることができません。多くの子どもたちが同じ時間と空間の中で同時進行で何かを学ぶということはもはやなされません。この型の人間形成では、インターネット環境の整備を条件として世界規模での相互学習が可能になります。しかし、社会的距離を確保が前提となるので、「ふれあい」という語で象徴されるような教師と生徒、生徒と生徒の関わりの直接性を追い求めることはもはやできなくなります。それは身体的接触に限らず、精神面での接近についても言えることなのかもしれません。しかし他方で「ふれあわない」がゆえに新たにできるようになることもあるはずです。映画が誕生した頃に似て、生身の人間同士ではできないようなことが新たにできるようになるという側面もあるはずです。たぶん、まさにヴァーチャル空間によって可能になること、演技・演出などの芸術的要素が、教育の目標・方法の両面でこれまで以上に強調されるのではないかと思います。
ただし、この超近代型の人間形成には、ソフト・ハード両面での不具合に弱いという点(テクノロジー面での専門家の助けが不可欠)、個人情報の保護の難しいという点に問題を抱えています。誰もが情報テクノロジーに依存しているがゆえに、情報テクノロジーを介した支配に対して身を守ることが難しいどころか、自らその支配を受け容れてしまうという問題があります。例えば、現在の「就活」のようなものはなくなり、その時々の社会が要請する能力資質の発達を就学前から(場合によっては生まれる前から)監視されているといったような「超青田買い」が標準になるかもしれません。AIが常時個々の子どもを監視しているため、もはや定期テストや受験なども不要になるかもしれませんが、それがはたして喜ばしいことなのかどうかの判断は慎重でなければならないでしょう。このあたりの未来予測には、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』などが役に立つと思います。
さらに超近代型人間形成の決定的弱点は、それが電力供給を前提としているため大規模停電にでもなれば子どもたちを含めすべての人が直ちに何もできなくなるという点にあります。その意味で、それはいわば「薄氷の上の人間形成」です。よって、いつインターネットが使えなくなるかわからないということを前提としつつ、使える間だけは徹底して使うということになるでしょう。基本型ではあっても頼りないというのはこういう意味です。
前近代型の人間形成は、これまであまり重視されてこなかった、というよりもむしろ徐々に重視されなくなったわけですが、これからはあらためて重視されるのではないかと予想しています。それは「生きる力」などではなく「生き延びる力(サバイバル力)」の獲得を目指すような人間形成です。そこでは、電気・水道・ガスなどのインフラが崩壊した状態でも、一人一人(たとえ完全に孤立した状況でも)が人間の生活を根本で支えるのに必要不可欠な条件を、比較的長期にわたってどう確保できるかが問われると思います。スマホなしには1時間ももたないような現代人にとっては、まったく新しい目標に見えると思います。半世紀くらい前に行われていたような技術・家庭科の授業内容をいっそう濃厚にしたもの、あるいはデューイの「オキュペーション」をもっと本気でやるような感じだと思います。きっと、新中間層出身の「お子さま」相手の「新教育」におけるような「まねごと」的甘さのない、もっと厳粛なものになるでしょう。食料生産を基盤とするモノ作りの技術を核としながら、その技術を基盤にしつつ、周囲に人間関係を形成し、広げていくことのできる(ただしここでも「ふれあい」は禁物)ような能力が必要になるのでしょうか。コメディー映画「サバイバル・ファミリー」などを観ることでも何かよい着想が(もちろんヴィールス感染関連を除けばですが)得られるかもしれません。
そして最後のものが、従来行われてきた近代型の人間形成で、これはもはや超近代型、前近代型の人間形成の余白でしか行われえないようなものです。同じ時間・同じ場所に多くの人が集まることなど、もはや安全・安心が十分に確保された特殊な条件下でしか行われえないでしょうから、ある意味で贅沢品の類いということになるのかもしれません。私たちが今日「学校」という言葉でイメージするような空間・時間は、19世紀後半に本格的に普及したわけですが、この2世紀に満たない短い歴史しかもたない学校というものが、人間形成におけるその中核的役割を失うということです。
これら三つの人間形成の型は、選択肢ということではありません。三つを同時並行して進めていかなければならないわけなので、これまでの教育史に見られなかったような新たな事態が出現するのかもしれません。「インターネットを使いこなす縄文人」のような人間像が目指されるのでしょうか。もちろんすべては空想にすぎず、その善し悪しを評価することすらできないのですが。
・2020/04/10 ずいぶん以前、実に多くの方々がわたくしの「ぼやき」のページを訪問して下さっておりました。あのページは、大学以外のサーバーへのリンクで読む形になっておりましたが、今回このページのデータは大学のサーバーに保存されておりますので、あまりはめをはずすことのないよう心がけたいと思っているところでございます。
さて、「グローバルリスクの時代における教育(学)」といったようなテーマでシンポジウムなどやっていただきたいものです。一斉教授方式に限らず同じ時間・同じ場所に多くの子どもたちを集めることを前提として存続してきた「学校」という存在の根底が揺らぐという、歴史的な出来事が今起きているわけですから。TVニュースのインタビューなどを見ていると、学校に行けない状態が続く中、子どもたちは「友達に会いたい」とは答えても「勉強したい」とは答えないようだ。学校の機能とは何だろう。学校はもはや勉強の場ではないのだなあ。小中高の時期は、友人の存在というものが何よりも重要なのだなあ。などと、あたりまえのことにあらためて気づかされます。